生きることは好きを形にすること

好きなものとか考えていることを形に残していく日記らしきもの。レビューも稀にする。

生きることは好きを形にすること

 

生きるということ

これを読んでくれたあなた様にとって「生きる」とはどういうことでしょうか。

食べて・寝て・子供を作ること?
洋服を来て、食事をして、住む家があること?

いろんな「生きる」ことがあって、そのどれもがその人にとって正しいと思いますし、多分私にも当てはまることだと思います。

だってこうしてオタクをして、記事を書いている以上、私が生きているのは自明の理です。そして三大欲求はともかくとして、衣食住がなければ生きていたとしてもオタクとしてブログを更新できていたかというと謎です。

なのでそういう「生存に必要なこと」は置いといて。

あなた様にとって「生きること」とはどういうことになりますか?

私はタイトルであり、ブログ名でもある「好きを形にすること」だと思っています。
いや、名前つけたときはそんなことは考えてなくて脳直で決めたんですけど。

 

 

さて、そういう話を主題として閑話休題

「好き」とは。

時は少し遡りまして、1年と少し前の話です。

2019年のメーカーのフェスの話をします。
2019年のメーカーフェスは物販(自ジャンルのグッズなかったのに)もほぼ始発で並んで、2日間4公演全て通いました。楽しいと思いました。もう4公演全力でした。
声を出していく系イベントなんでがっつり声出しまくって、本当に楽しかったです。

でも、です。
泣かないし感極まらない。好きだし楽しいし面白いけど、強烈にな感情は特になく、私の求めているイベントはコレジャナイ感があったのです。
いや行きたかったし、自分に合っているイベントだったんですけど(全体コーレス大好き)

本当に演者の方は最高すぎて、ずっと楽しく見ていました! 私が言うのもなんですけど、本当にすっごくすっごく楽しかった! 好きなコンテンツのお祭りって、好きなコンテンツのリアルイベントって、本当に楽しいなと思いました。
多分これからも推しの参加不参加に関わらず、コンテンツが参加するのであれば全通すると思いました。

でも、そんだけ楽しかったと豪語できるのに、「好き」という暴力的なまで感情が湧かなかったのです。
心を奪われるような、このためだけに生きていると思えるような、生を謳歌する感情が湧かなかったんです。

 

そんなとき、どこかで見かけた「推しが出ないイベントのほうが気楽に見ることができる」という言葉を思い出しました。
今年はめでたく推しが出てきてくれたので、推しが出たイベントも声優様が出ているイベントも双方出てこないイベントも経験したのですが、確かに推し(声優様含む)が出ないイベントは全体が見れるし、イベントのストーリーを追えます。定点カメラにならないし、スポットライトを浴びた人を見ていて、そのタイミングで見るべき人を見ることができます。それは正しいフィルムを見ているような、イベントそのものを楽しめるようなそういう気持ちになります。

それが気楽というのかもしれません……いや違うか。

推しが出たイベントは私には2つしかありません。その2つのどちらでも推しが出ると知った瞬間から、どれだけ準備しても準備しても準備しても準備しても足りない気持ちになりました。やれる限りなんでもしたかったし、できることは何でもしました。そのために無理も無茶も通した記憶もあります。それで何度もメンタルを壊したし、「推しが出なければいい」と何度も思いました。

それでもやっぱり自分が望んだ推しが出てきたあの日、あのときの感情は推しが出てこなかった今までのどのイベントよりも強烈で、鮮烈で、苛烈で、今でも極彩色に輝いています*1
イベントに参加するのに何を求めているかという話にはなるんですけど、推し(声優様含む)が出ないイベントに何しに行っているかというと「イベント」そのものを見に行っているのだと考えます。だから、気楽というか、そこまで意気込む理由がない、のか、な。

気負うこともなく、イベントを楽しく過ごせるのはいいですよね。楽しい空間を求めているのであって、「好き」がなくてもいいというか。イベント自体好きだから行っているんですけど。

どのイベントでも概ね楽しく過ごせているので元手は取っているのですが、でも、やっぱり、私は「好き」という暴力的なまでの感情に囚われてオタクしているので、感情に殴られたくてイベントガチャしている気がします。
あとは自己表現のために行っている説もあるのですが、その辺りは別途記事にしたいところです。

 

そんな体験を経て、この記事を書くに至って「好き」という感情が何なのかと悩みました。
以前から割と頻繁に考えていたのですが、言葉にできるかというとそれはとても難しいことでした。

好きな人はいます。推しや声優様や友人とか。
でも、好きなものは、なんだろう……何が好きかな。ちょっと即答では思いつかないですね。

今まで記載していたとおり、私にとって「好き」という感情は自分を見失うほどの強い感情なんだと思います。
形振り構わないで真っ直ぐ追いかけることができる感情というか、見返りというかこれといった何かがなくても、生きていてくれて、存在してくれているだけで感謝するような感情というか。
私にはそういう風に思える人たちがいます。それが推ししかり、声優様しかり、友人しかり。その「好き」には大小やタイミングがあれども、何かあれば優先できるぐらい「好き」で大事な人たちです。その人達に代わりがいるかというと絶対にいないし、替えたくはない、ですね。

とはいえ「こういう場合は好きと言っていたほうが誤解も起こらず得策である」という類の好きもあります。あとは「なんと表現するかはよくわからないけど、多分好意的に思っている」の好きとか。
好きなブランドがあるし、好きな食べ物もある、好きな色もそう。好きなものはたくさんあるし興味のあるものはたくさんある。でも、好きな人に対して抱く好きと、それ以外の好きはあんまり一致しないので、人以外で好きなものをあげるとき、いつもちょっと困ります。
だって、いなくなったら悲しいけどそれで終わる程度の感情を好きというのかわからないから。
だって、時間が経てば存在も消えてしまうような感情を好きというのかわからないから。

誰にとっても区別を付けさせないように努力しているけど、私の中で「好き」という感情は宝物というより行動理念で、原動力で、生きる意味です。
「好き」には誠実にいたいし、「好き」でいたことは一生誇っていたい。
好きとは言えなくてもすべての人や物に誠実でいたいとは思っていますけども!

別に他人の好きにケチをつけたいわけではありません。
私の中である「好き」という感情が辞書で引いた"好き"と違っていて、多分全人類十人十色の『好き』とも違っていて、ただこの「好き」をぽつりぽつりと形にすることが、私にとって生きることだと思っているという話なのです。

 

 

さて、長くなりましたが締めにもういっちょ。

形にすることって何?

私は軽率に、何に対しても「楽しい」と「好き」と言う方ではあります。
また、ポジティブな感情は押し付けたり免罪符にしたりしない限りは伝えても損はないと思っています。

友人と遊ぶときたくさん楽しいと伝えますし、「好き」というのも衒いなく伝えます。無論、恋人にも何度も腐るほど伝えるタイプです。

その行動は今の所誰かを傷つけたこともなく、「伝えてくれてありがとう」とか「いつも泡沫ちゃんが伝えてくれるから嬉しいよ」とか「泡沫ちゃんが本気で思っているの伝わるよ」とかなんとか、ありがたい言葉をもらいます。

でも、それを振り返る様式で残してはいませんでした。いやDMとかLINEとか探せばあるんですけど、いつ・どこで・誰と・何をしたかは書いてないし、残っていません。

私は推しに出会うまで楽しく生きていました。たぶん。
今となっては推しがいなかったときの生活をあんまり思い出せないのですが、毎日友人と通話したり、友人のおすすめの動画を見たり、アニメを見たりして、長期連休の際は友人の地域に遊びに行ったり、ぼんやりと旅をしたりとほどほどに忙しく充実した日々を過ごしていました。楽しかった、はずです。楽しかったはずなんです。

でも、今その頃のことを思い出そうとしてもぼんやりとしています。
楽しかったはずなのに、どう楽しかったかを思い出せないのです。多分Twitterのログを見れば少しは思い出せるのですが、アウトプットをしていたわけではないし、人と過ごすときはTwitterもしないのでログがない。
私の記憶はポンコツなのでよく忘れているのですが、友人が覚えてくれていて、たまに一緒に振り返ってくれるので「そんな事もあったなぁ」と思えます。本当にどうしようもない人間ではあるのですが、私の思い出を他人の手を借りないと割と思い出すことができません。私は私の思い出を残しておくことができないようなのです。

 

そんな私ですが推しに出会ってからは、推しが好きであることをどうやったらアピールできるのか考えて行動していました。別に推しにアピールしたかったわけではありません。自覚と自認のために自分のために全世界にアピールしたかったんです。
そんなアピールの一貫としてこのブログをはじめました。

推しのことや自分のオタクとしてのことや人生のことでぼんやりと文字を書き、気分でアップロードして、ぽつぽつと残していっています。

自分でも何を書いたかを完全に覚えているかというと、鳥頭なのもあって全然覚えていません。読み返すと「うわ、すごいわかる! って自分で書いたやないかーい」ってなることもしばしばあります。
私がどのように推しが好きで、声優様が好きで、推しと声優様に出会えてどんな風に感じて、考えて、どういう風に表現しているかはタイムスタンプと共に残っています。
それがなんか、自分の軌跡に思えて仕方ありません。

私がブログを書くのを完全に辞めたり、もしくは推し・声優様のファンを降りたり、死んだりしても、このときこの場所に私が生きて、考えて、ブログを書いた事実は消えません*2
それは今、私が生きていることであることと等しいのではないかなと思います。

 

 

「生きることは好きを形にすること」

私はこのブログを始めて、自分のために自分だけの生きることに出会えた気がします。
レールもなく、他人のためでもなく、他人に依存もしていない。やっと自分のための人生を歩けたような気がしていて、面映い気持ちになりながらこんなことを書いてみました。

 

 

あとがき

確か以前誰かが言っていましたね。

ブログ名をタイトルにすると最終回感あふれる!!!

いや、まじでそうですわ。これはどう見ても最終回ですわ。でも泣かないで、楽しみにしてくれている人。喜ばないで、アンチ諸君。残念ながらまだ最終回ではないので、今後ともよろしくお願いいたします。
ああでも本題の通り、自分勝手に自分のための文字を書いていくので、よろしくはしなくても構いません。

読んでいらっしゃる方が少しでも楽しんだり、感性や琴線や思考に触れることができたら良いなと思いながら、適当に更新を頑張ります。


そんなことを考えながら、あるときふと思い立って、こんなツイートしました。

 

本来なら、ブログやってる皆様にブログで投げたいと思いつつ、Twitterをメインに生きている人間なのでノリとテンションで呟いたわけです。
相互フォローの方を始めとして、相互フォローでない人や全く知らないブロガーさんにも反応いただけて、文面もうちょっと考えればよかったなと思いました。気が向いたら、是非とも貴方様のブログのタイトルで一記事書いてみてください~!

*1:まあ、推し自身が登場することはありえないので暗闇認識なんですけど。

*2:はてブロがサービス終了したら消えると思ったあなた、大正解! でも、紙で残しても紙魚とかで消えるからまあ完全に残る方法なんてないんですよね。