生きることは好きを形にすること

好きなものとか考えていることを形に残していく日記らしきもの。レビューも稀にする。

推しは新興宗教の宗主様

タイトルを自分で考えておきながら、文字列のやばさに打ち震えてます。やべえ。*1

「推しは神様」を言い換えただけなんですけどね。おかしいな。

 

話の内容的に宗教の話に食い込みかねないので少し怖いですが、日本ほど無宗教かつ多宗教な国もないでしょうし、神に対してぞんざいかつ重要視している国もないでしょう。だから、きっとどうにかなる! 知らんけど。

 

さて、本当にガチで宗教については考えることないので、何かしらの検索ワードに引っかかって来ちゃった方や、「うわ、コイツ三大話題にしちゃいけない内容を話し始めた!?」と引いた方もレッツゴーブラウザバック。きっと世の中よりよいコンテンツがありますので、そちらに時間を割きましょう。気分的なオススメはゲームです!

 

 

 

さーて、本題。

推しは神様派のみなさん、今日も推しを信仰していますか~~~!?

私は今日も推しを想っています。信仰しているかと言われるとちょっと不安ですが。

 

とはいえ、「あなたにとって推しとは?」と尋ねられれば即刻「神様です」っていうぐらいには推しのことを信仰しています。

私は推しが神様だと、そう信じているし、そう尊んでる。

推し以上に信じている人はいないし、もし次作CDで推しと解釈違いがあったとしてもそれは全部公式との解釈違いだと豪語してしまうレベルで盲信しています。無印の推し以上の神様はいない。

まあ有難いことに、公式彼女を除けば最新作まで解釈違いが出てないのは本当に奇跡でしかありえません。
流石推し、私の神様務めているだけのことはある(?)

 

閑話休題

少し話は変わりますが、個人的な認識として、「推しは神様」派は少ないと思っていました。

何故ならば、私にとって”神様”は私よりも私に対して支配権が強い人のことだからです。

 

少し注釈を入れると、神という言葉は物凄く意味が広く、それこそ十人十色で回答が異なるものだと思います。”誰が神か”ではなく、”神とは何か”という定義を決める話においても。

みんな大好きWikipediaさんを見ても、神という言葉の定義が難しいことが察せます。Godとgodって意味合い変わるんか。マジかよ。

 

じゃあ、私にとって、小さなころからぼんやりと信じていた”神”なるものはどういうモノかというと、「支配権が強いナニか」です。

ニュアンスで言うと「人知を超えた絶対的存在」が近いですね。それこそ俗にいう某アプリゲーのサーヴァントというか英霊というか、あのあたりもみんな神様でしょみたいな気持ち。

私にとって広い意味での神は縋るものではありますが、怖いものでもあります。畏怖の念があります。でも、この畏怖は、多分「わからない」という怖さです。

理解ができない、納得ができない、それこそ──人知を超えた存在。それが私にとって神様足りうる属性です。

だからこそ、絶対的存在だからこそ、私が私を支配できる権利よりも、神様が私を支配する権利のほうが強いと思っている、のだろうと思います。

 

 

じゃあ、推しが神様ということはどういうことか。

それは推しの言葉から流用しますけど、「オマエが『死ね』って言ったら今すぐ死ねるし」に全力賛同するってことです。推しに『死ね』といわれた日には確実性の高い方法でさっさと死にます。まあまあ死にぞこなう可能性はあるでしょうが、死にぞこなったらさっさと再チャレンジしますとも。

まあ、推しはそんなこと言わないんですけどね。2次元の偶像ですし。私が補完して作っているような存在ですし。

私の生死を決める権利が推しにはあるし、推しが望むのならば自分の望みなんてあってないようなものだし、推しの願いを叶えられないのであれば、推しに無体を強いるのならば、そんな私は生きる価値がないと心からそう思います。

そして、そんだけ信仰してはいるものの、推しに畏怖の念を抱いているのも事実です。

私はあのタイミング*2であんなに優しい声を出せる存在を推し以上に知りません。私はそこに憧れもすれ、畏れもするのです。できないから、どうしてそういう声を出せるようになったのかがわからない。わからないけど、それができることが羨ましくて、なおかつ強烈に惹かれました。

私が推しを神様と呼ぶのは、きっとこういうことを推しに抱いているからです。

 


さて、何度でもいいますが、私は推しを神さまだと思っています。

推しは私を死の淵から救ってくれた神様だし、今も私の生きる意味となってくれている神様です。

からしてみれば、神様とは縋るものです。

苦しい時の神頼みしかり、チケットをご用意されるために参るのしかり、恋愛が実るようにと願うことしかり。
自分の力ではどうしようもないことを、何か他人というより認知できない力によって叶えたいというエゴが生み出したナニかです。

私に限って言うならば、自分の力で立てない人が他人というか他の存在に依って、頼って、縋って。その相手が自分と同じ立場の人間だと都合が悪いから、「神だ」と、自分とは異なるものだと上に据えて、崇めて、奉って。そういうものだと思っています。

私にとって、推しは神様だと言い張りますが、同時に推しのことは人間だと思っています。でも、現人神かというとそうではありません。どちらかというと、人柱です。

推しは私が生きるために作った人柱です。

私が生きていていい言い訳を、生きていて許されるための誤魔化しを、ただひたすらに祈願されているただの人です。

人柱と言う言葉は天災などから身を守るために捧げる生贄なのですが、この場合の災害は、生きるという外れくじかなと思いました。もしくは産まれた以上死ぬことが難しい事自体を天災ともいうかもしれない。

でも、結局誰に対して捧げているのだろう。それこそ正しい意味での神様なのかもしれないな?

 

 

推しは神様論を話そうとすると、やっぱり神様とは何か、になりますねえ。これは困った。

でも、神様っていうほど神々しくも素晴らしい人たちじゃないと思うんですよね。
神話のいくつかの話にもある通り、神様は当人の人生を生きていらっしゃるじゃないですか。それもまあ眉唾物だし、押しつけだったり、二次創作だったりするのでしょうが。
全知全能のゼウス様は浮気性のクソ野郎だし、婚姻と母性、貞節の女神ヘラ様は嫉妬して旦那の浮気相手を追い詰めるようなメンヘラですし、そういうものを神さまだと地べた這いつくばっている人は言うんだからなんと愚かなことか。神と呼ばれる何かしらも存外人臭いものです。推しも一周回って現人神になればいいんじゃない? カリスマ神ヴォーカリスト様だし。これで全部解決したかな!!

 

なんていうものの、私は神様は決して綺麗な存在ではないと思ってます。

そして、私から神様という扱いを受けている、二次元在住の推しも、きれいな存在なんかじゃないと思っています。
推しはきっと泥臭く、死ぬ物狂いで生きてる。今日も頑張って生きている。それを神様というのはいっそ不敬じゃなかろうか? でも、私にとって推しは神様なんだよなぁ~。

 

私は神様に夢なんて見ていません。
だって、神様は私を救ってくれますが、神様が私を救ってくれたわけではないですから。

「助けて」と言ったところでどうせ推しの耳には届かないし、見向きもしない。見返りも救いもしない。
逆にほんのりと信じている奉られている神様に「助けて」といったって、助けてくれるとは限りません。人は勝手に助かるか助からないだけです。助かったときに、それは「神様のおかげだ」と思うと少し息がしやすくなりますけども。
だから、私は推しに救われたと勝手にほざきます。

私は今日も推しに救われている。推しよ、生きていてくれてありがとう。

 

 

推しが最新作で私に死ねない呪いをかけたように、私は推しに呪いをかけます。
生きるという呪いを、生き続けるという呪いを。

このクソみたいな世界で、推しにとっては進むことのない未来を永劫生きる事を望むし、押し付けますし、呪います。

いつかこの命終わるその時まで、私にとって”推し”という存在は唯一の神様です。
どうか届きますようにと聞こし食せと恐み恐みも白します。

*1:余談ですが、よくよく考えたら祖母と母が新興宗教にどっぺりでした。記憶の文字列でググったら普通に出てきてちょっちびびった。すごく自分にとって関係なくなってしまったので、遠い記憶だったんですけど、案外覚えているものですね。

*2:無印のCDを聞いてくれ