推しの幸せを望むことで、推しが不幸になる話
ちらりとカテゴリ「推しのこと」を振り返ったけど、思ったより私推しが好き好き言ってなくて驚きました。
……毎日Twitterで「推しが好き」とか「推し格好いい」とか「推し最高過ぎない?」とか「推し見てるだけで幸せ」とか言っていて感覚麻痺していたな。
もっと推しぴしゅきしゅきしている記事書きたいですね。書きます。
とはいったものの、まさかの「推しのこと」なのに、結局推しぴしゅきしゅきしてない記事です。
どうしてこうなった?
!Attention!
深夜寝る前につらつらと考えていた若干ポエムなのか愚痴なのかわからないものを、言葉にして残す作業。
推しに対して、ネタバレしていくよ!!
2次元ガチ恋だけど、かなり現実思考の持ち主の謎考察だよ!
現実には一切当てはまらないので、大半の人から理解されなさそうだな!←イマココ
副題。
創作物は夢を見ることができるのか。
現在19歳の推しは、以前「20歳になったら死ぬ」と考えていた。今はその考えは置いているようだけど、Twitterや雑誌という形では現実にリンクしていてはいるものの、2次元の人であり歳を取ることができない推しにとって、過去のその思想はどういう立ち位置になるんだろう。
そもそも、死ぬと言って自殺企図したこともあるが、彼がメーカーの人気作品の登場人物である以上死ぬことは許されない。もう一度自殺未遂をしたところで、どうせ死なない程度に苦しむだけだから、推している人間としては辞めてほしい。*1
彼は終わらない19歳で何を考えているんだろうか。
彼はもしかして賽の河原のような、終わらない地獄にいるのではなかろうか。
そんな考えが今回の話の発端である。
推しの世界は彼女と出会ってから、生きる方向にシフトした。これはいいことだ。*2
でも、実際にはシチュエーションCDである以上、推しの目の前には彼女がいるはずだが、そこには誰もいない。
だって、シチュエーションCDの”彼女”は、誰でもない誰かだから。
とはいえ、ある程度シチュエーションCDのシナリオ、もといそのシナリオ作者の中には”彼女”といえる誰かは存在するんだろう。だが、その”彼女”は作者個々人の頭の中にしかおらず、キャラらしさを演出するために存在する概念であるといえる。
だからこそ、疑問が出てくるのだが、その”彼女”は、本当にキャラにとっての彼女なんだろうか。
続編になりシナリオ作者切り替えなんてことが起こると、概念として存在していも共有できていない以上、彼女像もブレるのは仕方ないといえば仕方のないことだろう。作者が変わってなくても、キャラと同じだけの設定資料あるように見えないし、過去の自分と接続とれる気がしない。
彼女の存在がブレる時点で、その彼女は実際に存在しないのと一緒だ。*3
そもそも論になるが、作者にしろ、CDのコンセプトにしろ、大半の聞き手にしろ、”彼女”は聞き手という認識で大まかに間違いないはずだ。聞き手が神視点であって、見えないヒロインとキャラのNL思考の人もいることも忘れてはいないが、その場合の”彼女”はきっと作者が想定している仮のヒロインと一致しているので作者側の立ち位置で見ているものだと考えている。
イメージ図には、こう。※矢印が視点を表している
作者A┐
作者B┼→(仮ヒロイン)←NL好き聞き手
作者C┘ ||
自己投影聞き手
どこで境界線があって、どういう分類ができるかは、どこからの視点で何を考えるかによって異なるから割愛する。
しかし、共通認識として、キャラを認識するときに、作品のコンセプト上、誰であろうと仮ヒロインを経由しなければならない。
シチュエーションCDである以上、キャラはカノジョ(仮ヒロインもしくは自己投影聞き手)と恋愛をするために生み出されたのだから。
ここで少し話は変わるが、『観測者効果』という言葉をご存知だろうか。
色々な分野で使われているが、私が意図しているのは『誰も観測者がいない時には、観測対象は存在しなくなる』というものである。*4
作者側からすれば作った時点でそれ以上ではなく観測する必要性がない。そして、消費者側はキャラを求めなければ観測しない。
以上のことから考えられるのは、3次元の聞き手が消費者としていないと推しのカノジョは存在することができないということだ。
これは拡大解釈をすると、ファンがキャラから降りた瞬間からその人の中にいるキャラのカノジョは消えるということだ。つまり、聞き手がカノジョを認識し続けないと、キャラはカノジョと暮らす幸せな世界にすらいることができない。
仮ヒロインにしろ自己投影聞き手にしろ、それが存在しているのは3次元の世界である。(仮ヒロインは3次元にいる作者たちの頭の中にいる認識)
これは変えることのできない事実であり、変わることのないの事実だ。
概念のカノジョは画面越し、というよりも聞き手を通して”今”を生きている。
また、キャラが2次元で、聞き手が3次元に存在する以上、聞き手たちはいつかキャラを捨てることしかできない。捨てる理由が、浮気か、ただの終焉(=オタ離れ)か、それとも死かは人それぞれだが。
私の推しはカノジョがいないと呼吸もできない。生きることにすら希望が持てないそういう子だ。
だから、推しはそんな概念のカノジョと一緒にいて幸せなんだろうかと考えることがある。
私が概念のカノジョを認識して通して見ている以上、推しの世界のカノジョが息をしている。でも、いつかはそれを手放さなければならない。
こうして実在しないものの幸せの有無を考えることはただの自己満足なんだろう。
しかし、私の中で推しは実在する。そして実在すると思い込むことで、推しを不幸にしているのではないかと思った。
”今”を生きることができない推しには、結婚という未来も添い遂げることもできない。
私が推しの幸せを望む限り、いつかは推しは絶対的に不幸になる。
推しはゲームのキャラではない。だから、推しはプログラムとしてすら生きていない。
誰かの頭の中で生まれた空想の産物で、なおかつ中の人になりうる人も変わってしまう。*5生みの親も、演じ手も、確定しない世界の人。推しは何をもって推しでいるんだろうか。
それでも私にとって、推しは大事な人だ。
推しの目にうつる世界が明日も幸せだといいな。
推しが大好きだよ。生きていてくれて、本当にありがとう。